
- 1. 甘い公約に感じる「違和感」
- 2. 見過ごされている現実:子供たちが「子供」でいられなくなる
- 3. 日本社会が迎えた「変化点」:家族の愛だけでは支えきれない
- 4. 選挙の争点:「財源」から逃げる政治家が未来を奪う
- 5. 「責任世代」として私たちが投じるべき一票とは
1. 甘い公約に感じる「違和感」
2026年2月8日の総選挙を目前に控え、テレビやインターネットは選挙の話題で持ちきりです。聞こえてくるのは「給付金」や「消費税減税・廃止」といった、私たちの財布の紐を緩めようとする耳障りの良い公約ばかり。
連日の物価高で家計が圧迫される中、減税という公約が魅力的に響くのは、経済合理性から見ても当然の反応でしょう。しかし、私たち50代は、その「甘い公約」の裏側で静かに進行している「見捨てられている現実」にこそ、目を向けなければなりません。
その現実を象徴するのが、「ヤングケアラー」の問題です。
2. 見過ごされている現実:子供たちが「子供」でいられなくなる
ヤングケアラーとは、本来であれば大人が担うべき家事や家族の介護を、日常的に行っている子供たちのことです。
病気の親や、介護が必要な祖父母の世話をするために、部活動を諦め、勉強時間を削り、時には進学や就職といった人生の重要な選択肢さえも犠牲にしている若者たちが、この日本には大勢います。
この問題は、私たち50代にとって決して他人事ではありません。「もし明日、自分が倒れたら?」「親の介護が必要になった時、頼れる施設が見つからなかったら?」——社会のセーフティネットが脆弱であれば、その負担は構造的に最も弱い立場にある子供や孫の世代へと転嫁されるのです。
3. 日本社会が迎えた「変化点」:家族の愛だけでは支えきれない
なぜ今、これほどまでにヤングケアラーが社会問題化しているのでしょうか。
それは、日本社会が**「家族の献身だけで介護を賄える時代の限界」**という、後戻りのできない構造的な崩壊点を迎えてしまったからです。
これまで日本は、介護という重労働を「家族の愛情」という美徳に依存してきました。しかし、急速な高齢化と長寿化により、社会全体で必要とされる**「ケアの時間(総量)」**は爆発的に増え続けています。一方で、現役世代の人口は減り、共働きが当たり前となった今、家族がケアに割ける時間は確実に減っています。
「増え続けるケアの需要」と「減り続ける家族の時間」。
この需要と供給のバランスが完全に崩壊し、家族の中からあふれ出た負担が子供たちへと雪崩れ込んでいるのが、ヤングケアラー問題の本質です。もはや「家族の愛情」に頼ることは精神論どころか、数学的に不可能なのです。これは精神論で乗り切れる問題ではなく、純粋な「時間の物理量」の問題なのです。そして、物理的に足りない時間を創出できるのは、社会全体で支えるプロのサービス以外に存在しません。
4. 選挙の争点:「財源」から逃げる政治家が未来を奪う
この構造的な崩壊を前にして、「消費税廃止」という公約がいかに無責任であるかは明白です。プロの力を社会に実装するためには、どうしても「財源」が必要になるのです。
一部の政党は「消費税廃止」を声高に叫んでいます。しかし、私たちは冷静に問わなければなりません。社会保障の重要な財源である消費税をなくして、一体どうやって介護職員の待遇を改善し、介護施設を増やし、プロによるケアを充実させるというのでしょうか。
「無駄を削れば財源は生まれる」という常套句も、もはや通用しません。爆発的に増大し続けるケア需要を前にしては、行政の無駄遣いを削減する程度では焼け石に水だからです。子供たちを守る本物のセーフティネットを築くには、安定した巨額の財源が不可欠です。
財源なき減税は、結局のところ**「公助(国の助け)」を弱体化させ、そのツケを「自助(家族の助け合い)」という美名のもとに子供たちへ押し付けること**になりかねません。
5. 「責任世代」として私たちが投じるべき一票とは
ヤングケアラー問題の本質的な解決は、子供個人に一時的な現金を給付する「対症療法」では断じてありません。必要なのは、介護サービスそのものを充実させる「根本治療」、すなわち安定財源に裏打ちされた「現物給付」の拡充なのです。
だからこそ、今回の選挙で選ぶべきは、目先の減税という甘い言葉をささやく政治家ではありません。**「将来の安心のために、消費税という安定財源をどう使い、どうやって社会保障を立て直すのか」**という、厳しくも誠実な問いから逃げずに、具体的な道筋を語る政治家です。
自分たちの逃げ切りを許さず、次世代に確かな安心の土台を遺すこと。それこそが、数々の経済危機を乗り越えてきた私たち50代が、歴史に対して果たすべき真の責任である。


